昭和四十九年十二月九日 朝の御理解
御神誡 「真の道におりながら真の道をふまぬこと」
皆、いよいよ繁昌のおかげを頂いた。日勝り月勝りのおかげを頂いた。この大きな願い、大きなおかげを頂くためには、基礎、基盤というものが大事です。
それはどういうところにあるかというと、真の道を知ることだと思うです。まことの道をわからせて貰うて、真の道に則った行き方、それで段々繁昌のおかげ、段々大きくなつて行くのであります。
一番肝心なそこのところを頂かずに、例えばおかげを頂いても、それは砂上に楼閣を建てる様な結果にしかならん。又それが子にも孫にもつながって行く様な、おかげにもならない。どなたかの教えに、学問をして信心をするなと、信心をして学問をせよと、いう教えだったと思います。
学問をして信心をすると、どうしても学問の道で、頭の信心になってしまう。いうなら頭でっかちになってしまう、いうなら理屈が多くなる。
どんなに詳しく信心がわかっても、それではおかげにならん。いわゆる教祖がおっしゃる様に、学が身を食うということになる。だから学問がいけないのではない、けれども信心を心にして、信心をして学問せよというふうにいわれます。
私はそれを、なら、財産をつくって信心をすな、というふうにも言えるというふうに思う。私が頑張って、私が働きがよかったからこげん儲け出した。そこから信心が始められたんじゃいかん。信心をして、信心が土台となって、商売なら商売が繁昌する。金持ちなら金持ちになるという、おかげでなからなければ、いけないという意味でしょう。
いうならば、信心をまず頂いて、それがどういうことかと言うと、真の道を知るからです。真の道がわかるからです。真の道がわかって、勉強する。真の道がわかって、段々金持ちになる。分限者になると結局、まことの道がわかり真の道をふみながら、頂いて行くおかげじゃなからねば、おかげにならん。
今日は私は、楠正成の像を頂いた。そしたらここんところの御理解を頂いた。楠というのは、あれは楠太りというて、もう何んぼでも大きくなる木です。何んぼでも大きくなれるためにです、私は正しく正成、正しく茂るものでなからねばいけないということです。 まあ悪いことをして、まあ巨万の富を造り上げても、それは本当の正成、正しく茂ったことにはならない。いつかはそのまた裏が来る。正しく茂ということは、真の道をふみながら、私は段々おかげを頂いて行くことだと思う。
そこでならまことの道とは、どういう道を言うのだろうか、成るほど教祖様の御教えを頂きますと、もうどれも真の道をふんで行くことが、いわば教えてございますけど、おかげは例えば、真の道をふんでいなくても、例えば、こういう例がありますよ。
毎日よく日参が出来る。お話しもよく頂かれるけれども教えを、いわゆる、守らない人がある。お参りだけはしっかり出来るけれども、教えを守らないということは、まことの道をふんでない。只一生懸命参りよるから、おかげはやっぱり頂きますよ。何となしに日々お取次頂くから、おかげは頂きますけど、本当のいうならば楠ぶとり的なおかげにはならんです。堂々まわりの様なおかげです。
そうするとですね余りお参りはしなくて時々ではあってもです、教えを本気で行じていく人がある。いうなら真の道をふんで行く人が、人から、だからあちらは中々の人物である。正直である、真面目であると信用される。だから段々繁昌して行くという人があるです。
毎日毎日お参りはしよって、お話しは頂きよるけれども、いわゆる真の道をふまない人がある。教えを守らない人がある。それでも毎日お参りをしてお取次を頂くから、おかげは受けるけれども、そういうおかげは楠太りになって行かないです。
これはもう不思議にそうです。そういう信者が沢山あるです、お道の信者の中にも。もう真の道をふんでからの、例えば家業であり、商売であるならばです、もう必ず一年まさり代まさりにおかげを頂いて行かねばならないのです。
ところが一生懸命お参りはしよる、お願いはしよるけれども、真の道をふんで行きよらん、教えをふんで教えを守らない。そこでなら時々参ってから、教えを、いうなら人物をつくって行くという、行き方でもよいのです。しかしこれはねまた、本当のおかげになりません。それはいうならば、人徳的おかげだけにしかなりません。
あちらは金光様の信心しござるけん中々人物が良い正直だ、真面目だと、けどその人物は時たまにしか、お参りしないと致しましょうか、それでも教えは一生懸命例えば守って行く、商売をするでも事業をするでも、悪いことをしない。
道に反した様なことはしない。そういう生き方で行きますから、必ず人の徳が付くです。いや信用がつくです。けれどもね、人の徳がついて商売が繁昌する。人の徳がついておかげを受けるということは大したことはないです。それにねいうならば、神様の信用、神様のお徳がつかなければ、いよいよ代まさりとかね、一年まさりとか代勝りのおかげとかにはなって来ない。
親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代、それはお徳を残すから、おかげ頂いて行くのです。それにはです、時々ども参っとってといったことではです人の信用はついても、人から真面目な人と言われるから、信用がつくから、商売がうまく行っておる様であっても、大きな楠太りにはならないです。だからどうでも信心も熱心にしなければならない。同時に教えを守り、教えをふむということも大事にしなければならないということになるのです。
だから真の道、真の道というけれども、本気でやはり真の人にならせて頂かなければ真の道がわかりません。
教祖様は、私どもに真の人間、まことの人としての神様の氏子として、はずかしからぬ人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心、万物の霊長としての値打ちを、いよいよつくることのために信心をさしてもらう、そこからはっきり真の道が見えて来る様になる。 私はこの真の道ということはね、人間の道だと思います。だから人間の道を例えば、ふみ違えて信心をしてです、大きなおかげが受けられる筈はありません。
信心しよってからでもね、人からあの人達は信心してござるけれども、と言われる様なね、いうならばです、後ろ指を指される様な事で信心しておっても、おかげを頂いても、いうなら、楠太りという様なおかげにはなって行かないです。正しくしこって行かなければならないです。正成です。
金光様の信心しよるから、皆良か人ばっかりかというと、そうじゃないです。
昔の、お寺さんのお説教に、そんな話を聞いた事がある。仏様参りじゃのうて、お賽銭泥棒に来よる。悪か下駄ば履いて来といてから、良か下駄と履き替えるために、お説教聞きに来よる。そういうのがあるんですやはり。金光様の信者の中にでも、だから金光様の信心しよるから立派と信用出来ん。金光様の信心は、だから立派ということではないけれども、金光様の信心しござるから、成るほど立派な生き方をしござるという生き方をしなければ、楠太りにはならないということを今日は聞いて頂いた。
そんならば、その楠木太りのおかげを頂くためにはです。結局真の人になることのための精進をしなければいけません。
あヽあの人こそ真の人だなあという生き方、そこに真の人の目で見る人、真の人の真の道、どうあることが本当だということがハッキリして来る。ハッキリわかって来るところからね、その真の道をふまんでも、まことの道を行かんでも、教えを守らなくってもね、おかげが受けられるのも金光様の御信心なんです。
ここまで立派にならんならおかげやらんという様な、神様じゃないもん。どんな悪人でもです、やはりおかげが受けられるのです。だから只おかげに甘えているという信心ではいけない。結局自分自身が出来て来る。人間が出来て来る。
心が和いで来る。心がいよいよ深い喜びが頂ける様になる。いよいよわれとわが心が拝めれる様になって来ると言うことが信心、もう本当に心しなければいけないことです。
そこで、真の人になる精進それが、やはり信心は日々の改まりが第一であり、本心の玉を研くものぞやと仰せられるところをです、ふんまえての信心、教えを行じ守らせて頂くという信心、それからおかげが頂けて来る。
そういう信心を頂いて、おかげが伴うて来るというおかげならばです、堂々まわり決してないです。去年よりやっぱり今年、今年よりも来年という様にです、必ず繁昌して行くです。
私どもの過去何十年間の信心というものを実際振り返って見てです、まあ私は母のお胎の中からの信心ですから、おぎゃと生まれたときから金光様の信者として、おかげを頂いとるわけです。随分といろいろとおかげを頂いて参っております。
物心がつく様になって、いよいよ金光様じゃなからんならんという思いが、いよいよ強くなって行くばかり。そして商売をさして頂く様になって、その商売をして来た。十何年でしょうか、その十何年間の、私の商売の仕方というものが、果して金光様の信心者に相応しい商売をして来たであろうか。否、決してそうじゃなかった。
いやむしろ反対じゃった、うんと儲けたら、儲けた分だけは神様にお供えするといった様な、程度の生き方じゃった。
人が十銭で売るのは八銭で売れと。おっしゃるのに、人が十銭で売るのに十一銭で売ることが、商売上手の様に思うて来た。それでもやはりおかげを受けてきた、という事実なんです。けれどもそれはもろくも消えて無くなってしまった。やがて裸一貫で引き上げて帰って来なければならん様な結果になった。
信心を頂かずして、金儲けをしよった。信心を本当に頂かずして、金儲けをしよった。だから基礎土台というものがないからもろくもくずれ去った。砂上に楼閣を建てた様なことであった。そしてはじめて、わからせて頂いたのが、裸一貫になったとき、はじめて気が付いた。信心はしよる、拝みはしおる、御用は一生懸命さしてもらいよる。それで頂くおかげはもらいます。
だからお願いして、お取次を頂くと、おかげを頂くから危ない。自分が改まろうともしなければ、研こうともしない。真の道をさがそうともしない。真の道をふもうともしない。そしてはじめて気が付かせて頂いてです、信心のいうならば、根底の、根底のところから、やり直そうという気にならせて頂いた。
まずは、人間つくりから、そして私の様な人間がという、私の様な人間がということがわかって来た。浅ましい自分であることがわかって来た。ずるい自分であることがわかって来た。
そこから、自分は食べる資格もなからなければ、着る資格もないと、いうところに、自分というものを引き下げて、考える様になった。
夏も冬も夏服一着で、過ごさして頂いたのも、そういうところからであった。食べる資格のない私というところから、何年間一椀のおかゆさんだけで、過ごさして頂くという様な、信心にもなって来た。そして与えられるもの、その与えられるものによっておかげを頂いて行く、いうならば、私ども夫婦が布一寸買わないという行き方になったのも、そういう自覚が出来たからである。
そして段々信心の本当の基礎が出来る様になったら、いうならば現在では、まあこれが本当に山海の珍味であろうかという様な、ごちそうも頂ける様になり、これ以上の着物があるだろうか、こんな素晴らしいものを身につけてよかろうかという様なです、自ずと身について来る様になった。
こういう行き方をゆるめず行けばです、もういよいよ日まさり月まさり、年まさり代まさり、親の代よりも子の代とおかげが頂けれる、事を私は確認しながら、また人間ですからどこに間違いがあってもなりませんから、間違いのない生き方を、いうならば足して見たら引いて見る。引いて見たら、足して見るという様に、的確な答えを出してから、生活をさして頂く様に、なって参りました。これが、私は真の道だと思うのです。
皆さん、私がもう、とにかくふんで来た。私の過去の、信心の道という様なものをです、一ぺん私がもう、こういう事は、いけないということを、体験して来ておるのですから、成るほど自分は商売の道は研究した。誰よりも商売の道は上手だと思って来た。
また努力もした。成るほどお願いをしてお取次を頂いて、おかげを頂いて来た。けれどもそれはもう、それこそあと形もない様に、消え去ってしまったときにはじめて目がさめた。いわゆる真の信心に目がさめた。そこから真の道をいよいよ、求め求めさして頂くうちにです、今日の私、いうなら今日の合楽があるのです。
ですから、皆さんも無駄なところを通らずにです。只お参りをしてお願いをすりゃおかげを頂くからに甘んじずにです、本気で日々頂く修行を、本気で行じさしてもらう守らしてもらう、商売人ならこういう行き方をせにゃん、お百姓さんならこういう行き方をせんならんと言った様な、教祖が示して下さる教えを本気で守って行かないとです、いわゆる堂々まわりのおかげは頂かれるにしてもです、繁昌にならない。楠正成にならない、楠太りにならない、正しくしこってゆかないからです。
そこでなら、真の道とは、真の人になる精進をさして頂く、しかも真の道というのは、今日は皆さん、ここのところが頂き処なんです。真の道とは、人間の道ということです。 面は人間の面をしとってもです、獣の通る様な道を歩いておる様なことはないか。人間の面はしとるけれども心は、鬼じゃろうか蛇じゃろうかという心はないか、人間の面、形じゃいけないということ、心がね、人間らしゅうならにゃいけないということ。万物の霊長らしくならなければいけないということ。牛やら馬やらが如何に真の理屈を説いても、牛やら馬ではわかりません。してみるとやはり人間が辿らせて頂く道こそが、真の道だということがわかるでしょう。
人間の面をしながら、獣が通る様な、道を歩く様なことではです、おかげは受けても、それは、お徳にはならん。楠木太りのいよいよおかげにはなって行かないと。
真の道におりながら、真の道をふまぬこと。折角まことの道を教えて下さる真の信心におらせて頂きながら、真の道をふんで来なかった十数年間。例えば私の商売、過去においての青年時代から、壮年期に入るまでの商売ということはです。真の道におりながら、まことの道をふんで来なかった。
それでもおかげは頂いて来た、けれどもそのおかげはもろくも壊れてしもうた。それは砂上に楼閣を建てた様なものであった。事業つきせずに、家を建てた様なものであって、狂い出して、いよいよくずれるときは、がらがらと、音をたててくずれる様な、感じであった。
だからそういう信心からです、本当に真の道、真の信心を目指さしてもらってです、人間の真の道とは、人間の道である。
人間としてのです、恥ずかしくない道を辿らしてもらう、そのことがです、真の道をふんで行く事だと思うです。どうぞ。